阪神大震災から20年

2015年1月17日

阪神・淡路大震災から今日で20年。
この20年は短かったような気がします。

あれから20年。今日厳粛な気持ちでその時間に黙とうしました。

20年前、当時も西宮に住んでいたので、あの日は地震を目の当たりにしました。
下から突き上げる感覚。そして強烈なゆれ。
すぐに飛び起きた私はまだ1歳を過ぎたばかりの娘を抱えて壁際に座りこんでいました。

かなり長い時間、そうして少しも動くことができず、ただただ動きが止まるのを待っていました。
ようやくわれにかえってラジオをつけると、地震が起こって老人が転んだ、、、というようなぼんやりした情報しか流れてこず、内心は「そんなにたいしたことはないのかも。ここはマンションだから揺れがひどかったのかしら。」とのんきな気持ちでいました。
実際我が家の被害は玄関の靴箱が倒れただけ。玄関もすぐに開いたので、最初は気楽な気持ちでいました。

空が明るくなってきて、電気もつかない状況に不安になって、娘を主人に預けておそるおそるマンションの1階まで下りました。
すると、電話ボックスには長蛇の列。地面はどろどろの粘土のように液状化現象が始まっていました。「ただごとじゃない!」とやっと気付き、事の重大さに慌てて主人を呼びました。

幸いうちの建物は頑丈で、どのマンションを見ても倒壊するおそれはなさそう、、、となると水と食べ物の確保。
スーパーは食べ物を求める人で山だかり。自動販売機の水はあっという間に売り切れていました。

10キロ離れたところにある私の実家に電話をしても繋がらず。心配になって車を走らせました。
川沿いの道路はひび割れていて、信号がついていないので、車は大渋滞。それでも20分の道のりを1時間以上かけて実家にたどりつき、両親の安否を確認しました。
木造2階建ての実家は活断層の真下で人が住める状況ではありませんでした。
前日まで娘と泊っていましたが、ぐずる娘に言い聞かせ自宅に帰ってきたのが生死の分かれ目。
泊っていたかもしれない2階は4棹のタンスがベッドの上に倒れこんでいました。

その後実家は取り壊され、住むところがなくなった両親、西宮の山手の1階がぺしゃんこになったマンションに住んでいた出産間近の妹夫婦との3世帯同居が始まりました。
水は定期的にしか配給がなく、飲み水はポリタンクに入れ、娘を背負ってベビーカーで運びました。
洗濯は電車で隣の市まで担いでいきました。父は線路をたどって親戚の無事を確認しに行きました。
こんなことが実際におこるなんて想像もしていなかった。命を落とされたたくさんの方々の家族はどんなに無念だったことでしょう。
あの時から、命があるだけで幸せなんだ、と思えるようになりました。

あの時おなかの中にいた次女も今年で20歳。
あなたは大変な年に生まれたのよ。水を運んで重いものをもっても無事に産まれてきてくれたことを感謝して、それでも毎年娘の年の数だけあの激動の日々から過ぎていっていることをかみしめ、もう二度とあんな悲劇は起きないことを祈っています。

いつまでもあの日を風化させないように。ずっとあの日を忘れない。

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